您现在的位置是:首页 >精选问答 > 2024-06-15 11:30:17 来源:
日语论文格式模板(日语论文)
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1、概要
2、日本语の方言は大きく「本土方言」と「琉球方言」に分かれ、それぞれがさらに细分化できる。本土方言と琉球方言との间では全く通じないほどの违いがあり、さらに琉球方言内部にも地域によって会话が通じないほどの方言差がある。本土方言の内部にも多様性があり、かつては异なる方言话者の间で意思疎通に支障をきたす现象も多々みられた。明治以降、东京方言を基に标准语が确立され普及が进められたが、戦後は标准语・共通语と方言との共存が図られた(歴史・近代以降章を参照)。しかし、各地の伝统的な方言は急速に衰退・変质している。
3、日本では「方言」という语は、「めんこい」「おもろい」「ばってん」のような标准语や共通语とは异なる各地方独特の语汇や言い回し(「俚言」)あるいはアクセントや発音の违い(いわゆる「なまり」)を指す场合が多いが、言语学ではアクセント・音韵・文法などを全てひっくるめ、その地域社会の言语体系全体を指すのが一般的である。すなわち、东京という一地域の日本语の体系ということで「东京方言」も当然存在する。俗に「お国言叶」などとも言う。标准语・共通语およびその基となった东京方言に対して、その他の方言は「教养のない田舎者の言叶」「讹っている」「崩れている」などと否定的に捉えられがちであり、また特定の方言に対する「○○弁は汚い」「○○弁は上品」などの意识が存在する。
4、特徴
5、日本は地方ごとに语汇・文法・音韵・アクセントなどあらゆる面で方言の差が大きく、异なる地方に旅行や出张をした际に言叶が通じず苦労する场合も少なくない。特に冲縄県や鹿児岛県奄美群岛の言语は、文献时代に入るよりも前に本土方言から分岐してしまい、日本本土との往来も少なくなるうちに、5母音が3母音化する(例:おきなわ→うちなあ)など、一聴する限り外国语のように闻こえるほどの差が生じた。そのうえ、琉球诸岛は政治的な统合も遅れ、各地で互いに通じ合わないほどの方言分化が発生した。このため、琉球诸岛の言语を日本语の方言とする考え方の他に、「琉球语」として日本语と同系统(日本语族)の别言语としたり、「琉球诸语」として异なる言语の集合と位置づける考えがある。そもそも「言语」と「方言」の客観的な区别法はなく、国境の有无のような政治的条件や正书法の有无などにより判别されている。またユネスコが2009年に発表した消灭の危机にある言语の调査では、「国际的な基准だと独立の言语と扱うのが妥当」として、八重山语、与那国语を「重大な危険」、冲縄语、国头语、宫古语、奄美语、八丈语を「危険」の区分に独立言语として分类している[1]。
6、全国の语汇の分布には、中央(京都)を挟んだ离れた地域に、同じような语汇や言い回しが存在し、中央では死语となった语が分布していることがある。このような分布を「周圏分布」と言い、柳田国男が『蜗牛考』でカタツムリを表す単语が同心円状に分布していることを指摘した(方言周圏论)。一方で、语汇は中央から伝播しただけでなく、各地方でも独自に新しく生み出されていった(方言孤立変迁论)。そのため、必ずしも辺境の言叶は古いというわけではない。また、中央で过去に起こったことのない変化なのに、离れた地域で同じような変化を起こして、见かけ上の周圏分布を示すことがある。たとえば东日本や九州などで连母音アイがエーやエァーになっているが、これはこのような変化が起こりやすい変化だからで、相互に交流がなくても同じ変化を起こしたためである。
7、このほか、いくつかの文法要素や语汇が「东西分布」を示すことが知られている。明治期、国语调査委员会が初めて调査を元に実证したのは、东日本方言と西日本方言との境界となる糸鱼川浜名湖线の存在であった。1908年(明治41年)の报告には、「仮ニ全国ノ言语区域ヲ东西ニ分カタントスル时ハ大略越中飞騨美浓三河ノ东境ニ沿ヒテ其境界线ヲ引キ此线以东ヲ东部方言トシ、以西ヲ西部方言トスルコトヲ得ルガ如シ」と明记されている。东西の违いには、文法では打ち消しの「-ない」と「-ん」、结果态の「-てる」と「-とる・ちょる」、形容词连用形の「白くなる」と「白うなる」などがある。语汇では「いる」と「おる」などが知られている。
8、なお、アイヌ语は日本国内で日本国民が用いてきた言语であるが、日本语とは别系统の言语であって日本语の方言ではない。ただ、アイヌ语を母语や第一言语とする话者は减少しており、アイヌにも日本语が浸透しているのが现状である。
9、区分
10、方言の地域区分を「方言区画」と言う。日本语の方言区画は、まず本土方言と琉球方言に分けられる。方言区画は、学者によって异なり、下の分类は东条操による区画案に近い。この案では、本土方言は东日本方言(北海道から岐阜・爱知まで)と西日本方言(北陆から中国・四国まで)と九州方言の3つに分けられた[2]。これに対し、都竹通年雄の案では、岐阜・爱知方言は西日本方言に含められ、东関东方言は南奥羽方言の中に入れられた。また、奥村三雄は、本土方言を东西の2つに分け、さらに东日本方言を东北・関东北东部・新潟県北东部と関东大部分・东海东山(岐阜・爱知含む)とに、西日本方言を北陆から九州北东部までと九州中南部とに分けた[3]。金田一春彦の说はこれらとはかなり违い、近畿・四国の内轮方言、西関东・中部・中国などの中轮方言、东北や九州などの外轮方言、琉球方言にあたる南岛方言に分けられた。
11、しかし、そもそも方言は现在进行形で変化している上、同じ方言圏であっても市町村・集落単位で复雑な様态を示している。一つ一つの语汇などで比べればいくらでも细かく区画することができるが、方言区画においては、なるべく重要なものや変わりにくいものを基准に分けられる。东条や都竹の区画案は、东西の文法の违いに注目している。一方、金田一は、アクセント・音韵体系や活用体系などの言语のより根干部分の违いを重视しようとした。
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